腕神経叢損傷
症状
腕神経叢(わんしんけいそう)は、首の付け根から腕、前腕、手全体へと広がる複雑な神経のネットワークです。この神経は、肩から手にかけての筋肉を動かす指令(運動)と、皮膚の感覚を制御する重要な役割を担っています。そのため、損傷を受けると、腕全体の運動機能や感覚機能が失われる、非常に深刻な状態を引き起こします。損傷の部位や程度によって現れる症状は異なりますが、患者様が自覚しやすい主な症状は以下の通りです。
- 手の動きの麻痺(まひ):指や手首、腕全体の力が急に入らなくなり、物を握る、肘を曲げるといった日常生活に必要な動作ができなくなります。重度の損傷では、全く動かせない状態(筋力評価M0)になることもあります。
- 感覚の鈍さや強いしびれ:腕から手にかけて、触覚や温度を感じる感覚が鈍くなります(感覚障害)。また、神経の損傷によって、痛みを伴う持続的な強いしびれ(神経の痛み)が生じることがあります。
- 首や肩の痛み・こり:受傷直後の炎症や、麻痺により腕を支えようとする周囲の筋肉の緊張で、首や肩に強い痛みやこりを感じることがあります。
これらの麻痺やしびれが継続する場合、機能回復の可能性を高めるためにも、できるだけ早く専門的な医療機関を受診し、適切な診断を受けることが重要です。
原因
腕神経叢損傷の発生原因のほとんどは、神経が急激かつ過度に引き伸ばされること、すなわち強い「牽引力」によって生じる重度の外傷です。この強い力が加わることで、神経が機能停止するだけでなく、物理的に断裂したり、さらに重い損傷として神経が脊髄(せきずい)から引き抜かれたり(節前損傷)することがあります。
腕神経叢損傷の主な原因と、そのメカニズムは以下の通りです。
- 交通事故(特にオートバイ事故):成人における最も一般的な原因であり、転倒時などに頭部と肩が激しく反対方向に引っ張られることで、腕神経叢に過大な牽引力が集中し、深刻な損傷を受けます。
- 高所からの転落や激しいスポーツ外傷:肩や腕が無理な方向に強く捻じ曲げられたり、体幹と腕が引き離されるような強い衝撃を受けたりすることで、神経の束が損傷を受けることがあります。
- 出産時の損傷(産科腕神経叢麻痺):分娩の際に、赤ちゃんの肩に強い牽引力がかかり、神経の一部が傷つくことで麻痺が生じることがあり、一般的にエルブ麻痺とも呼ばれます。
稀に、腫瘍による圧迫や過去の放射線治療の影響で麻痺を起こすこともあります。損傷の原因となった外傷のエネルギーの強さを正確に評価することが、その後の神経の回復力を見極め、治療方針を決める上で非常に重要となります。
診断
腕神経叢の損傷は、どの神経が、どの場所で、どの程度深く傷ついているかを判断することが難しく、専門的な診断が不可欠です。診断の目的は、単に病名を特定するだけでなく、手術の必要性やリハビリテーションの内容を決めるための詳細な情報を集めることにあります。
当院では、患者様一人ひとりの損傷状態を正確に把握し、適切な治療の道筋を立てるために、臨床所見の評価と専門的な画像・機能検査を多角的に組み合わせて実施します。
まずは、詳しい診察と筋力評価から始めます。受傷状況や症状の経過を詳しくお聞きし、腕や手の筋力(Mスケール)や感覚障害の範囲を細かく評価します。この診察で、損傷のパターン(C5/C6型や全型など)を推定し、迅速な治療判断につなげます。
次に、画像検査(MRI、X線)を行います。X線検査では骨折の有無を確認します。さらにMRI検査では、神経そのものの断裂部位や、神経が脊髄から引き抜かれている徴候(節前損傷)がないかなど、解剖学的な損傷の程度を詳しく調べます。特殊な撮像方法を用いることで、損傷を受けている神経を視覚的に確認することが可能になります。
最後に、神経機能検査(神経伝導検査・筋電図)で客観的な評価を行います。この検査は、神経が電気信号をどれだけ速く、正確に伝達できているかを測定することで、神経が一時的な麻痺なのか、物理的に切断されているのかといった重症度を判断するために不可欠な情報を提供します。
これらの多角的な検査を組み合わせることで、最も適切な治療方針を決定します。
治療
腕神経叢損傷の治療は、損傷の重症度や経過時間、患者様の状況によって大きく方針が変わります。神経の回復を待つ保存療法と、失われた機能を再建する外科的治療があり、いずれの場合も専門的な長期リハビリテーションが欠かせません。神経の物理的な断裂が疑われる重症例では、神経再建手術を行うための適切な時期が限られているため、迅速な診断と治療の方向性を決めることが求められます。
腕神経叢損傷に対する治療方法の主な柱は以下の通りです。
- 保存療法と安静:損傷の程度が比較的軽度で自然回復が見込まれる場合や、受傷直後の初期段階では、装具などを用いて患部を安静に保ち、神経が回復しやすい環境を整えます。無理な動作や牽引を避けることが最も大切です。
- リハビリテーション:麻痺により関節が硬くなる「関節拘縮」を防ぐため、神経の再建や回復を待つ間も、専門スタッフの指導のもと、関節の柔軟性を維持する訓練(他動的な関節可動域訓練)を継続的に実施する必要があります。神経の働きが戻った後は、回復した筋力を最大限に利用するための筋力強化訓練も行います。
- 薬物療法:損傷部位の炎症や、神経の損傷に起因するしびれや痛みをコントロールするために、内服薬や注射などを用いた薬物療法を実施し、患者様の苦痛を軽減します。
- 手術治療(神経修復術):神経の完全な断裂が確認され、自然回復が期待できないと判断された場合、機能の再建のために外科的治療が検討されます。機能している他の神経の一部を移植したり(神経移植)、他の筋肉への神経の接続を試みたりすることで、麻痺した筋肉への神経再支配を目指します。
腕神経叢損傷の治療は、診断からリハビリ終了まで長期にわたる忍耐が必要とされるプロセスです。当院では、患者様がこの長い期間、機能回復という目標に向かって粘り強く取り組めるよう、包括的で継続的な医学的サポートを提供いたします。